横山大観《霊峰春色》よこやまたいかん《れいほうしゅんしょく》1943(昭和18)年
横山大観(1868‐1958)は茨城県水戸に、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。幼名は秀松。のちに母方の親戚の姓・横山を名乗り秀麿と改名した。東京英語学校を卒業後に、東京美術学校開校と同時に入学し卒業後に同校図案科助教授になったが、岡倉天心の辞職に殉じ、日本美術院の創立に参加した。新たな日本画創造のため、菱田春草と共に輪郭線を用いず形態を描く「朦朧体」を試みるも理解を得られなかったが、欧米やインドなど外遊を経て鮮やかな色彩による装飾的な画風を展開するとともに、水墨画においても新境地を拓いた。また日本美術院を再興し、近代の日本画壇においても大きな影響を与えた。
雲煙の彼方に屹立する冠雪した霊峰が気高くそびえ、桜花が端然と咲き誇っている。戦時下において日本美術報国会会長に就任したばかりの大観が国威発揚のために日本の象徴としての富士山と桜を描いたことは想像にかたくない。「富士を描くことは富士にうつる自分の心を描くことだ」と生前語ったように、装飾的な桜とは対照的に、墨で描いた富士からは大観の気概が感じられる。
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